はじめどんのつぶやき

 広島市生まれ

しがないサラリーマン

妻とは大学時代に出会う

ビールと家族をこよなく愛している

好きなもの 仏像・城・カープ・ガンダム・相撲

キライなもの 段差



小学校付き添い編最終話「付き添い解除」

小学校での親の付き添いが、息子が4年生の夏休み前に完全解除された。

長かった―。

幼稚園入園から数えて足かけ6年半。文字どおり、雨の日も風の日も雪の日も両親どちらかが付き添い続けた。この付き添い期間中、妻は就労していなかった。当時はまだまだリモートワークやノマドワーカーも定着していなかったこともあるが、それにしても学校から付き添いを求められると、物理的に働くことは難しいと言える。このように付き添いのために就労できなかったり、もしくはそれまでの仕事を離職せざる得ない問題や、地域によって対応にばらつきがあることが問題視されたことは「医療的ケア児支援法」成立(2021年9月施行)の背景にもなっている。

 

そして件の幼稚園・小学校の付き添いであるが、今となっては得難い経験だったと思っている。しかしこれはまったくもって良い意味ではないことをはっきりと断っておく。付き添いなど絶対しないほうが良いと、身をもって体験したから言える、ということなのだ。この理由については、小学校付き添い編③「ステイスクール」にも書いたが、いまいちど要点を引用する。“このステイスクールで何より恐れていたのは、周りの子どもたちに、息子のように車いすに乗って呼吸器をつけた医療的ケア児は、常時親の付き添いが必要だという誤った認識を持たれてしまうことだった。” 親の付き添いによって、新たな差別の火種を増やしてしまう。まさにこのことが付き添いの根源的な問題点だと思う。

 

ここまでの息子の学校生活をまとめておくと、入学から4年生半ばまで、親の付き添いがあった。同じころにエレベーターと渡り廊下が完成した。それまでは1階の教室がクラスルームで2階以上の移動は階段昇降車だった。5年生からようやく2階以上がクラスルームとなった。

環境も整備されて、息子のスクールライフは次なる挑戦へと舵を切って行くことになるのだった。

小学校付き添い編⑪「GoToエレベーター2」

後ろに見えているのがエレベーター設置前の小学校
後ろに見えているのがエレベーター設置前の小学校

前回から引き延ばしたアクシデントとは何だったのか?

エレベーターと渡り廊下建設時に「埋蔵金の発見」とか「秘密の地下室の発見」なら、ロマンもあり面白かったのだが、残念ながらそうではなかった。

以前付き添い編④「クジャクと電車」でも書いたが、息子の小学校の脇をJR線路が通っている。そしてエレベーターと渡り廊下もこの線路側に建設される予定になっていた。ここにアクシデントの原因があったのだ。JR施設の隣接地に建造物を建てる場合、電車の運行の安全のために事前にJRへの建設認可申請が必要だったらしい。教育委員会がJR隣接学校に建造物を建てることの「前例」がなかったからなのか、これをしないままに建設準備に入ってしまい、直前になって申請が必要だと発覚した。JRはJRで大きな組織ゆえのスピード感のなさがマイナスに作用し、認可するだけに数か月を要することになり、工事はいったんストップせざるを得なくなったのだ。

 

エレベーター工事と並行して、教育委員会から学校を通して息子の進路について(要するに地域の中学校に行くのがどうか)複数回の問い合わせがあった。我が家としては「地域の中学校一択」の方針に変わりはなかったが、妻はそのたびに「地域の中学校進学を断念させる揺さぶりか」と思っていたらしいが、どうやら中学校のバリアフリーなど環境整備の確認だったらしい。これは予算取り、工期含めると数年かかることをこの小学校の経験で学んだ教育委員会が、中学入学の4年前からしっかり動き始めたということである。とにもかくにもこれで中学校のGoToエレベーターへの準備は整った。

 

足かけ2年の工事を経て、エレベーターと渡り廊下が完成した。息子とクラスメートも5年生にしてやっと校舎の2階以上がクラスルームとなった。

エレベーターがついて最初期には、カギがかかっていて常時エレベーターを使うことができなかった。これでは緊急時はともかく、使いたいときに使えないとすぐに学校に申し入れ

常時使用できるようになった。この話はエレベーターあるあるらしく、会の先輩の中には常時エレベーターのカギを持っていて、エレベーター移動時には同級生がぞろぞろついて来ていたそうだ。

用もないのにエレベーターで遊ぶのはケシカランことだが、常時使えなくすることでそれを防いだとしても意味がないように思う。それこそエレベーターが何のた

めに必要なのか生きた教育をすればいいだけの話だと思う。そうすればデパートなどで車いす利用者などがエレベーターになかなか乗れない事態などなくなるように思う。

 

エレベーターと渡り廊下が完成して、息子の垂直移動の不安がなくなり、いよいよ親の付き添いがなくなる日がやってくる。

小学校付き添い編⑩「GoToエレベーター1」

息子が1,2年生のときの教室は、校舎の1階だった。教室を移動して受ける授業も少なく、運動場へ行くのも楽々だった。以前小学校付き添い編⑤「無限軌道再び」でも書いたが、

当時息子の小学校にエレベーターはついていなかった。そのため息子の学校内での上下移動には不安を抱えていた。

 

息子が小学1年生入学の2015年当時、学校にエレベーターが設置できるかどうかという法的根拠は弱かった。2006年のバリアフリー法では、学校施設はなぜか対象外とされていた。翌2016年に障害者運動において大きな期待を持ってその施行を迎えられた障害者差別解消法にあってさえ、第4条第2項に、「社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによって前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない」というに留まっている。なんともまわりくどい言い回しでこの場合の『過重な負担』がどの程度なのかハッキリしておらず、設置側からの解釈次第ではどうとでも取れてしまうものだった。

2021年4月になってやっとバリアフリー法が改正され、学校などもバリアフリーが義務づけられた。詳しくはこちらでhttps://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/442005.html

また6月には医療的ケア児支援法が成立し、法整備されてはきている。これらを、行政側に恣意的に使われることなく、真に当事者のために活かすためには、今後もより一層、当事者・家族・支援者が声をあげ続けなければならないと考えている。

 

話は息子の場合に戻るが、小学校入学前から教育委員会に要望を続け、当時の校長先生からも避難所指定を受けている学校にエレベーターは必要であると言った働きかけもあった。そしてもちろん、バリアフリー促進には根拠として弱い、というようなことを書いてしまったが、前述の障害者差別解消法が大きく後押ししてくれたことは間違いない。息子が2年生のときようやくエレベーター設置に向けて動き出した。息子の学校には校舎が2棟あり、エレベーターが2台つくのかなと思っていたが、どうやらエレベーターは1台で校舎間は渡り廊下が設置されるということだった。思ったより大掛かりな工事にはなりそうだったが、予定では、息子が3年生の間中にはすべての工事が完了し、4年生に進級するまでには運用可能になるということであった。

しかし、ここで思わぬアクシデントが起こった。次回へ続く

小学校付き添い編⑨「オヤジの夢」

私には、自分の子どもが生まれたときからの夢があった。

それは、息子が小学校に通うようになったときに実現する夢だった。

その夢とは私の長年来の友人の会社が作成し、広島市の小学校現場で使用している『社会科 学習のてびき』で学んでほしいというものだった。

実は、この『てびき』私も小学生のときに使用していて、広島の歴史や地理を学ぶには最適なロングラン教材なのである。そのときから表紙や形状が変わっていないレトロ感満載のものであり(もちろん中身は時代に応じてバージョンアップされているだろうが)、したがって広島で『地域の小学校』で学んだ人なら、ほとんどの人の共通の思い出となりうるものなのだ。

その友人は教材運搬や集金などで県内各所の小学校を巡回している。当然、息子の小学校にも数か月に一度くらいはやってくるわけで、私や妻が、付き添いをしているときに、顔を合わすこともあった。

日中の仕事姿の彼は、家でたわいもない話をしながら、酒を酌み交わす普段の彼とはちがって見えたものだ。友人も「一日中空き教室にいるのか?退屈だろう、寒くないか(暑くないか)、大丈夫か」と驚き、心配してくれたものだ。

 息子も校内でこの友人と出会うことがあり、「何でボクの学校にいるの??」と不思議そうな顔をしていた。そんな息子も3年生になったとき『てびき』を配布され、同級生とともにその内容を学び、私の夢をかなえてくれた。

また、この時期、妻は毎日学校に待機を余儀なくされているわけであり、来客などがあっても普通に家で応対ができないという現実もあった。そこで、妻は取材(たまに大学の先生や学生さんからのインタビューなどに応じていた)や交渉事などあれば、先方に家ではなく学校に出向いてもらい、学校の一部屋で面会をしていた。そんななかで、医療的ケア児の親であることが理由となっている、なんとも不当というか、差別的ともいえる付き添いの状況を知ってもらおうとしていた。

 

 このような付き添い生活が続く中、学校現場のハード面で変化が起きてきた。

詳しくは次回のつぶやきをお待ちください。

「ありがとう 歩さん」

平本歩さんの逝去の報に接して、まず信じられないと言う思いでいっぱいでした。

年末に体調を崩されて以来、一進一退が続いていたが復活してくれるものと思っていました。

 

初めて歩さんを知ったのは、バクバクの会に入会して購入したハンドブックでした。

その後、家族ともども広島でお会いし、これがあの平本さんかーと緊張したことを鮮明に覚えています。

そこからは、あ、あの時会ったなとかメッセンジャーでのやりとりとか、

歩さんの在宅生活を書いた著書を愛媛総会で一緒に販売したなーなど、とりとめもないことばかりが思い出されます。

 

私たちは歩さんが切り拓いてくれた道を、ただただその後を当たり前のようについていけば良かった。

その生き方を教えてくれたから、ただただ当たり前のようにそう生きていけば良かった。

これからはそれができません。歩さんは言うだろう「そんなことは自分たちでやってくれ」と。

それはわかっているのだけれど、まだまだいろいろと聞いておかなければならいことが山ほどあったはずなのに

それがもうできません。

 

歩さん、人生はどうでしたか?いろいろなものを背負われていたと思います。その中の少しだけかもしれないけれど、

私たちに背負わせてください。そして、私たちに、ゆうきとゆめ、きぼうをくれてありがとうございました。

とうといいきかたを見せてくれてありがとうございました。安らかにお眠りください。

みんなそのうち、そちらに伺いますのでその時はよろしくお願いします。

 

新年のごあいさつ

新年あけましておめでとうございます。

昨年は新型コロナで明け、新型コロナで暮れた1年だった。学校は一斉休校となり、オリンピックも延期。そして今年もこのウイルスは世界中で猛威を振るっている。

人工呼吸器という言葉が連呼され、パルスオキシメーターの認知度までがアップした。

息子たちバクバクっ子にとってこれらのマシンは、生命維持はもちろんだが、生活していく上でのパートナーという側面がある。あまりにもネガティブなイメージばかりが植えつけられるのも困りものだなと感じる。

とりもなおさず「いのち」について考えさせられる1年であった。

バクバクの会では「いのち」について、約10年前に『命の宣言(文)』を出している。

 

いのちの宣言(文)

 

<ひとつ>

 

わたしたちは、みんな、つながっているにんげんです。

 

いっしょうけんめいにいきています。

 

 

<ふたつ>

 

いま、せかいは、いのちのじだいです。

 

わたしたちには、そのいのちを、ひとりのにんげんとして、

 

たいせつにすることが、もとめられています。

 

 

<みっつ>

 

どのいのちも、ころしても、ころされても、じぶんでしんでもいけません。

 

とおといしにかたは、ありません。

 

とおといいきかたと、とおといいのちがあるだけです。

 

 

<よっつ>

 

わたしのかわりも、あなたのかわりもありません。

 

わたしたち、にんげんは、わたしのいのちを、せいいっぱい、

 

いききるだけです。

 

 

<いつつ>

 

わたしたちは、わたしたちのいのちをうばうことをゆるしません。

 

わたしたちは、わたしたちをぬきに、わたしたちのことをきめないでとさけび、

 

ゆうきとゆめ、きぼうをともだちに、にんげんのいのちのみらいにむかいます。

 

 

バクバクの会~人工呼吸器とともに生きる

 

(旧:人工呼吸器をつけた子の親の会)2010.07.31

 

この宣言は、バクバクっ子に限らず、生きとし生けるすべての人に当てはまるものだと思う。

今年は息子にとって激動の年になる。

今こそ、この「いのちの宣言(文)」を胸に立ち向かっていこうと気を引き締めている。

次回は時を戻して小学校付き添い編を予定しています。

小学校付き添い編⑧「運動会・秋」

息子が運動会・春を終えて、夏を過ぎて運動会・秋を迎えた。

私が子どもの頃は運動会は秋が主流だったが、息子の育つこの地域では学校主体の運動会が秋に開催されることになっており、種目がかけっこ、玉入れ、表現と息子の出番が増えていた。運動会・春でかけっこと玉入れはやっていたので、表現はどうかなと思ってみていると、列の最後尾で呼吸器を車いすに載せた重装備の息子は一目でわかるくらい目立っていた。この時点では、まぁそんなものだろうなと思っていた。

ところがこの数年後の運動会では、周りの子どもたちも成長し、背も伸びて息子も最後尾ではなくなったこともあり、彼の姿は集団の中に埋もれて、溶け込んでしまい、親の私たちの目から見ても、見つけにくくなっていったのである。またまた話を盛りやがってと思われるかもしれないが、事実だから仕方ない。

これはともに学びともに育つことで、家族を含めた息子を取り巻く環境、視線が変化したのだと感じている。

 

1年生だった息子は玉入れにふつうに同級生と参加できたのだが、あとあといろんな人からの話を聞くと、車いすユーザーの子どもたちの中には、周りの子どもたちにぶつかると危険なので参加できないという事例があまたあることを知ってしまった。車いすが危険と言われて、当事者である子どもたちはどう思うだろうか?自分自身の存在がそのまま危険だと言われたに等しい。

学校教育関係者は差別ではないというかもしれないが、日本も批准している『障害者の権利に関する条約』には明確にあらゆる区別、排除、制限を「障害による差別」であるとしている。学校教育関係者には、障害者を排除するのではなく、どうすればみんなと一緒にできるのかと考えてほしい。これを合理的配慮と言う。そして、合理的配慮は特別扱いではない。また家族も当事者も合理的配慮に対して、遠慮・気がねをしないこと。これは私が愛読してやまない『ワニなつぶっくれっと② 就学相談いろはかるた』さとうよういち編著に「遠慮・気がねは、相手の差別に勇気をあたえる」とある。この言葉を私はいつも心に持つようにしている。さらに自分なりにプラスして「遠慮・気がねは、相手の合理的配慮を阻害する」とも感じている。

 

みんなでどうやったら一緒にできるかと知恵を出し合ってやりとげた運動会は、誰にとっても最高の運動会になるはずだと感じる。

小学校付き添い編⑦「運動会・春」

息子の通う小学校区では、春は地域主催と秋は学校主催の運動会が行われる。

息子が1年生の春の運動会は、入学後すぐに訪れた実質的な地域へのデビュー戦だった。

地域の方に、息子のような車いすに乗って人工呼吸器をつけて生活している医療的ケア児が、元気に学校に通ってますよという絶好のアピールになると思っていた。

 

1年生の出場種目は、かけっこと玉入れが予定されていた。幼稚園の運動会では、親のどちらかが息子の付き添いを余儀なくされていた。小学校入学後は支援アシスタントと学校看護師が配置されたことで、初めて運動会を両親そろって観客席から見ることができた。

当たり前のことが、当たり前にできる。地域の学校に入ってふつうを実感した出来事だった。

 

入場行進では1年生の最後尾で目立っていて、会場に少しざわめきもあったが、堂々と行進して準備体操もしっかりやっていた。この地域の運動会には地元の議員も来賓で大勢来ている。昨年の運動会では広島選出の夫婦で有名になった某代議士が、息子と学校看護師に何やらアピールしていた。

 

息子はかけっこで、男性支援アシスタントというターボエンジンを装備して臨んだ。号砲とともに駆けだし、車いすで跳ねながら1着でゴールした。跳ねとんだことと1着になったのが余程うれしかったのか、笑顔が印象的だった。観客席からはどよめきが巻き起こり、大きな拍手と大歓声が沸き上がった。

 

玉入れでは、飛んでくる玉が息子のところに溜まっていく。チームメイトがそれを次々投げ入れて行くのが要領いいな~と感心したものだった。

 

両親ともに町内会対抗の競技に出場して、久々に熱くなったものだが、いただく景品の量にもびっくりした。

そして、運動会の終わりには家族全員がヘロヘロになっていた。妻は終始「楽しい楽しい」と言っていてヘロヘロになった分、楽しさと充実感もたんまり味わえた運動会だった。

 

こうして地域の運動会・春でのデビュー戦は無事に終了した。

次回は「運動会・秋」をつぶやきます。 

小学校付き添い編⑥「メインイベント」

普段の学校生活でのメインイベントと言えば、給食の時間ではないだろうか。

ステイスクール中の給食の時間は、親も息子の教室でクラスメートと一緒に食べていた。

初めの頃クラスメートは息子の胃ろうでの食事について興味津々だった様だ。「口から食べないんならどうやって食べるの?」「このチューブでお腹に入るの?」と質問ぜめだったが、幼稚園から一緒のクラスメートは「これで食べるんよね」といった感じだったらしい。

中には「ひいお婆ちゃんと同じだ」というクラスメートがいて、子どもの観察力・理解力を侮ってはならないと自戒した。

 

1年生当時の息子は、いつもバナナフレーバー味を食べていて、そのバナナの香りをクラスメートが得も言われぬ顔でかいでいたのは楽しい思い出だ。それから数年後、毎日バナナ味の息子の給食にクラスメートは不満そうに「同じ味ばっかりで良いと思っとるん、バナナと違う味も絶対食べたいと思っとるはず!」と至極真っ当な指摘があった。これを機に問い合わせてみると、フレーバーの香りはバナナを筆頭にミルク、コーン、抹茶、コーヒーがあることがわかった。この件に関して両親ともに「いつも当事者の立場に立って」などと言っているが、まだまだできていないこともあると反省し、指摘してくれた息子のクラスメートに感謝した。そしてこんなあたりまえのかかわりの中で様々な気づきを与えてくれるふつう学級に通わせて良かったと改めて実感した。新味の香りはクラスメートにも好評で、どうやら息子は抹茶味が好みらしい。

 

ここまで給食についてサラッとつぶやいているが、経管栄養の注入についても地域によってさまざまな制約がある。別室で食べるよう強要されたり、注入のためだけに保護者が学校に付き添ったり、駆り出されたりするケースがある。息子は総合的な判断で経管栄養剤を食べているが、みんなと同じ給食をミキサーにかけ提供されている子ももちろんいる。1年前に出た『バクバクっ子、街を行く!』本の種出版https://www.bakubaku.org/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E5%8F%82%E8%80%83%E5%9B%B3%E6%9B%B8/にも書かれているが、医療的ケアが必要ということで受ける、合理的配慮の不提供や、差別的な取り扱いはまだまだ多くあるのが現状だ。この状況を変えていくためには一人でも多くの人にバクバクっ子たちのことを、医療的ケアとは何なのかを知ってもらうしかない。私はそう思ってつぶやいている。

 

今はコロナ禍で給食の時間もさまざまな制約を受けている。子どもたち誰もが望むかたちで給食の時間を楽しんでほしいと切に願う。

小学校付き添い編⑤「無限軌道再び」

ずいぶん前このつぶやき(2年前の5月27日)で「無限軌道と馬車馬」というタイトルで書いたこともあったのだが、なんと息子の学校に無限軌道がやって来た。その名は、階段昇降車。

 

当時学校にはエレベーターはなく、車いすの人が上の階へ行くときには大人数で担いで上がるしかなかった。その事実を知った時、息子が2歳の頃に沖縄の首里城に行った時に乗った階段昇降機があればいいのにと思った。だが、階段昇降機も合計4か所ある階段すべてに設置できれば良いがそうもいかない。1か所だけの利用となると、どうしても自由度が下がる。その不自由さをカバーするのが、階段昇降車なのだ。

 

階段昇降車を初めて見たとき、キャタピラが付いた駆動部分やフォルムからガンダムに出てくる「ガンタンク」みたいだと感動したものだった。ガンタンクいや階段昇降車は階段の段差をラクラクと上がっていく。ラクラクだからサクサクと上がっていくかと言うと、残念ながらそうはなっていない。また、構造上仕方ないのだが思った以上に振動もある。エレベーターやリフトと比べると当然ながらセットから到着まで時間がかかってしまう。

そして、学校生活での難点は、息子が昇降している間は安全のため、他の児童は階段を使うことができなくなってしまうこと。息子と息子の車いすは昇降車に乗せることができたが、身体的に揺れや振動に耐えられない人や、サイズ的に乗せらない車いすやストレッチャーがあることだ。これは仕方がないといって済むような問題ではない。同じ施設内で一方は昇降車に乗れる、一方は乗れないといったことがあってはならない。

私は何も階段昇降車を誹謗・中傷する気など全くない。むしろ、このマシンがあることによって構造上エレベーターがつけられない建物などではとても有用だと認識している。

 

先に書いたことから、学校などの施設では対象となる児童・生徒がいる場合はもちろん、入学希望者がいる場合にもエレベーターを設置することが望まれる。エレベーターがないことで住む地域の学区とは別の学区の学校を選んだり、ましてや選ばせたりすることは間違っている。

千葉市では、行政と「千葉市地域で生きる会」が中心となって調査し、小中学校でエレベーターが必要な児童・生徒がいる場合は入学前からでも設置に向けて取り組んでいる。このような先進的な取り組みがある一方、「予算がない」「後付けできない」などと理由を並べ、人力で3階まで昇り降りしている学校もある。この地域間の差は一体どこから来るのだろうと思わずにはいられない。

 

息子も入学時には、エレベーターの設置については何も決まっていなかった。

小学校付き添い編④「クジャクと電車」

息子の学校ではクジャクを飼育している。それを知った時は珍しいなと思った。

息子の付き添いでステイスクールを余儀なくされ、校内でクジャクを見てはその美しさに心癒されていた。

 

別室で待機していると、突然、悲鳴と言うのか何とも心がざわつく声が聞こえた。

それが何度となく繰り返される。しかし学校内では何事もなかったかのように、授業が行われている。私は、「もしかして、この声は自分にしか聞こえていないのか?」「まさか、自分は異世界に迷い込んでしまったのか?」など妄想をふくらませた。

どこから声がするのか、その正体を突き止めるべく校内を探し歩いた。ついに発見したその正体はクジャクだった。

 

みなさんはクジャクの鳴き声を聞いたことがありますか?聞いたことがない方はYouTubeなどで聞いてみてください。多分そのあまりの鳴き声に驚かれると思います。

ステイスクールの先輩の妻は当然知っていて、驚くだろうと思って黙っていたらしい。

 

そのくらい私にとって衝撃的だったクジャクの鳴き声も、慣れてしまった児童や学校関係者は何事もなかったかのようにふるまう。

 

また息子の教室のすぐ近くをJRの電車が走っている。私が子どもの頃、電車を間近に見る環境になく、走っている時の音の大きさもよく知らなかった。だが、息子たちは日に何度も学校に響く電車の走る音が聞こえないかのように授業をうけている。

 

クジャクと電車。どちらの声も音も知らない、慣れていない者からすると、気になって落ち着いてはいられない事だろう。だが、どちらにも慣れてしまえば、それが自然で当たり前のことになる。

 

息子は人工呼吸器をつけて、車いすに乗って地域の学校に通っている。周りの子どもたちや学校関係者も最初は違和感を感じたのかもしれないが、そこに居続け、在り続ければ、やがてそれは当たり前のことになる。息子を内蔵する世界こそが、この学校の日常となっていったのだ。

 

私はクジャクと電車を通じてそのことを実感した。

小学校付き添い編③「ステイスクール」

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、世間ではステイホームが叫ばれ、長い期間の自粛を余儀なくされた。この期間、家族と家にいながらいろいろなことを思い出したり、考えたりしていた。 みなさんは、自粛中、家にいることでどのような感想を持たれただろうか?コロナの感染拡大を防ぐためではあるが、何かしらの不自由さや辛さを感じられたのではなかろうか?「ステイホーム」を「ステイスクール」にイメージしてお読みください。

 

息子が入学して数日は妻がマンツーマンで息子に付き添い、4月下旬から学校看護師さんが配置され、そこから1週間程度で外廊下に机を置いての見守りとなった。廊下とはいえ、息子の学校は屋外廊下のため、ベランダみたいなところで、強い風雨となれば、軒下まで容赦なく雨が入ってくる。妻は毎朝、登校するとまずザラザラの土ぼこりを払うために机を水拭きしていると言っていた。そんなところに2週間近く留め置かれた。

 

そして5月の下旬、私が初めて息子に付き添って小学校に行く日がやって来た。一日通して小学校にいることなど30数年ぶりのことだ。妻から看護師さんや支援アシスタントの先生との引継ぎ方法についてレクチャーを受けて、晴れ渡る空の下息子と小学校へ登校する。 教室に入るとクラスメイトから「今日は起きとるね」「お父さんと一緒じゃ」とかパルスオキシメーターの数値を見て「バッチリじゃね」など話しかけてくる。だから彼らは医療ドラマなどでパルスオキシメーターを見て状況がすぐにわかる(笑)。息子は周囲から何かしてもらうばかりではなく、息子も周囲に対して何かを提供している。こうしたエピソードが、まさに共に学び共に育つなんだと感じた。

 

引継ぎをひと通り終えて、待機場所の空き教室に用意された机の前に座る。物珍しさもあり学校内の掲示物をウロウロ見て回る。周囲から見れば完全に不審者だろうなと思った。それもこれも「ステイスクール」をしなければならないからであった。何か起きたときのためという、何の生産性もないもののために親の付き添いを要求される。不測の事態というものは、息子だけではなく、健常児であっても、誰にでも起こり得るというのに…唯一の自由は昼ご飯を買いに近くのコンビニに行くときだけだった。 そしてこのステイスクールで何より恐れていたのは、周りの子どもたちに、息子のように車いすに乗って呼吸器をつけた医療的ケア児は、常時親の付き添いが必要だという誤った認識を持たれてしまうことだった。

 

ともかく、このステイスクールで一人でじっとしていることは、精神的にも肉体的にも想像以上の苦行だった。妻はほぼ毎日これをしているのかと思うと暗澹たる気分になった。 そんなステイスクールライフの中で、考えさせられることがあった。

小学校付き添い編②「学校看護師さん登場」

息子は幼稚園入園1週間後と同じように体調を崩してしまった。

病院に連れて行った妻によると、息子は明らかに体調を崩しているのに、学校を休みたくない、病院に行きたくない素振りをし、はては医師にも目をキラキラさせて「まったくしんどくありません!家に帰ります!学校行かないと!」と強いアピールをしたらしい。血液検査の結果を見た医師が「う~ん、行きたい気持ちは先生もわかるけどねえ・・・、これは、ちょっとさすがに入院だね」と、頭をぽんぽんされて宣告されると、一気にしおれてしまい、急激に病人の顔になってしまったそうだ。

やはり急激な環境の変化は、周囲が思う以上に本人に緊張を強いるのか。しかし、それ以上に、息子の学校へ行きたい!という主張が、まわりの誰にでもわかったということは、おもいがけない成長でもあった。ともかく、できるだけ早く回復してくれることを願った。

 

幸い、1週間の入院で学校へ復帰したが、親としては、「すぐに体調を崩す子だ」と周囲に思われるのは嫌だなと感じていた。しかし、この思いは完全に杞憂だった。それから息子は入院することなく元気に学校生活を送っている。

 

4月下旬、待ちに待った看護師さんが2名配置された。妻から看護師さんの息子に対する様子を聞いて安心したと同時に、よくぞ学校看護師という希少で前例の少ない職場に来てくださったと感謝の気持ちでいっぱいだった。後にバクバクの会の会報誌に~未知の世界へお引越し~という表題で手記を寄稿いただいたのだが、当時の悪戦苦闘の様子が記されている。志のある方々によって息子の医療的ケア体制が整った。

 

学校看護師の仕事については、大阪府教育庁のリーフレット『学校で働く看護師~公立小中学校での医療的ケア~』に詳しく書かれている。だが、全国的に学校看護師のなり手が少ないのが実情だ。学校看護師が世間に知られるよう行政ともどもPRしていく必要があると感じている。

 

そして、最大の難関である親の学校への付き添い解消に向けて取り組みを開始していくことになった。

小学校付き添い編①「1年1組のバクバクっ子」

4月だと言うのに、寒風吹きすさぶ中、息子は小学校の入学式の朝を迎えた。

 

「1年何組になっているかな?」と話しながら、校門をくぐって掲示板を見ると1年1組のところに息子の名前があった。両親ともに1年1組なったことがなかったので、何か新鮮な気持ちだった。

 

幼稚園が一緒だった家族もたくさんいて、お互いに「同じクラスだったね」「隣のクラスだよ」など声を掛け合った。地域の幼稚園から小学校に上がってきた、という実感を得られたものだ。

 

これはこののち、もっと感じていくのだが、子どもの成長と共に地域の知り合いがどんどん増えていく、家族もろとも、地域に育てられている思いがある。

 

息子の学習面をサポートしてくれる、支援アシスタント(学習面全般のサポートをする)の先生とはここで初めて顔合わせをした。入学式で体育館への入場があるのだが、その時に車いすを押すのをどうしますか?と聞かれたが、躊躇なくアシスタントの先生にお願いした。

 

そして息子は、新1年生として晴れやかな顔で会場に入場してきた。

 

息子の学校での医療的ケアを担当してくれる看護師さんはこの段階で、2名配置が決まっていたが、教育委員会内での契約などの事務手続きの関係で当日は間に合わなかった。これもどうかと思う。

 

あとあと看護師さんにこの時点の様子を聞けば、決まった段階で、息子との早い顔合わせを望んでくれたそうなのだが、手続き完了するまでは会わせられないと教育委員会が拒んだらしい。

 

入学してから当分の間、医療的ケアや生活面・学習面の引継ぎ確認、協力のために保護者の付き添いはあるが、幼稚園のときほど息子にベッタリとしたものにはならないだろうと夫婦ともに期待していた。

 

1年1組になった息子は、手探り状態で入学して、学校生活をスタートさせた。行く行くは看護師さんとの引継ぎを終えて、早いうちに保護者が離脱できればいいなと目論んでいたが、1週間後に事件は起こった。


幼稚園死闘編最終回「卒園式」

息子の幼稚園入園から怒涛のように月日は流れ、卒園式の日がやって来た。

あの入園闘争から2年、長かった思いと瞬く間だったという思いが交錯する。

義務教育ではないことと幼稚園に看護師配置がないため、常時保護者の付き添いが

求められた。しかし息子はクラスメイトと初めて集団生活を送り、様々な行事を経験して大きく成長できていると実感した。『ワニなつブックレット②就学相談いろはかるた2019版さとうよういち編著』に「大人がどんなにがんばっても、友だちのかわりはできません」ということばがある。まさに我が家はそのことを実感した。幼稚園に通って息子がつくった世界は大人にはつくることのできないものだった。

 

息子は晴れがましい顔をして、卒園証書を受け取り、人生初の在籍証明を手にした。

記念写真もニコニコの笑顔だった。幼稚園に通わせて本当に良かったと家族全員でそう思った。

 

小学校入学前の春、制服を注文したり、通学路を歩いて確認したり、持ち物に名前を書くなど(膨大な数のさんすうセット。あれは苦行である)準備をした。そんな中、息子に真新しいランドセルを背負わせてみた。今は空っぽのランドセルだが、これからいろんなものが入ってくる。その時に励みになるのが、息子という呼吸器ユーザーとともに育った仲間たちだ。彼らは知っている。世の中には医療的ケアを必要とする人間がいることを。適切な配慮があれば一緒に生活できることを。

 

新たに迎える小学校生活に、胸を躍らせる我々家族だったが・・・

 

次回から新章「小学校編(仮)」がスタートします。

幼稚園死闘編⑪「届いた就学通知書」

親の付き添いはあったものの、息子は幼稚園のみんなと一緒に春夏秋冬、遠足、運動会、発表会と駆け抜けていった。雨の日も大雪の日も元気に幼稚園に通園した。

 

そんな幼稚園年長の冬の日に我が家に就学通知書が届いた。教育委員会との就学に関する話し合いで「地域の学校の普通級に行きます」と伝えてはいたが、いざ通知書が届いた時には、なんだか心がざわついた。

 

通知書のシールをはがすと、就学先として、ちゃんと地元の小学校の名前があり安堵し、ちょっと感動した。安堵はしたが、同時に自分自身に対してふつふつと怒りが込み上げてきた。「地域の学校へ入学の就学通知が届く、そんなあたりまえのことに何を感動しているのか」と。自分の子どもを差別しないと、腹をくくって覚悟していても、不意におかしな感情が顔を見せることがある。このことは日々自戒しておかなければならない。

 

ともかく、息子は地域の小学校入学が決まった。これはひとえに、息子の前を行ってくれた人たちが、文字どおり「命をかけて」道を切り拓いてくれたからだと、感謝している。そして我が家は後から来る人の支えになろうと決めた。

 

しかしながら、全国では本人や保護者が地域の学校を希望しているにも関わらず、なんだかんだと理由をつけて他の学校に就学させる差別的な取り扱いや、また希望通り入学できたとしても、勝手に入学をゴリ押ししてきたと言わんばかりの態度をとり、充分な合理的配慮を提供しない事例が、山のようにある。

 

誰もが希望する場所での就学通知書が受け取れる、そんな社会にしていきたい。

幼稚園死闘編⑩「ハサミ」

息子が幼稚園に通うようになり、オヤジも幼稚園デビューを果たした。幼稚園では歌をうたったり、絵本を読んでもらったり、絵を描いたりするのだが、息子は子どもたちみんなですることのどれもが新鮮だったようで、普段見ることのない表情をしていた。

 

工作の時間はハサミや糊を使う。息子にとっては普通のハサミを使うのが厄介だった。子ども用のハサミの穴に、息子と介助者の指を両方ともは入れられず、大人用のスマートな穴のないハサミは握りづらい。そこで何かそういったモノがないかと、いろいろ探してみると、手のひら全体で握ったり、上から押さえるだけで切れるハサミ『カスタ』を発見した。

 

息子と一緒に使ってみると、サクサク切れて良い感じだった。周りの子どもたちは、普通のハサミで切ることに悪戦苦闘している中、上から押さえて切るタイプの息子のハサミを見て、「これは切りやすそうじゃね」「こんなハサミもあるんじゃね」と言ったり、実際使ってみたりしていて面白かった。

 

そこでふと思ったのが、一般的なフツウのハサミを使えるようになることも大事だが、それでうまくいかないならば、使えるハサミを作ればいいじゃないかと言うことだった。

 

「ハサミに合わせるのではなく、使えるハサミを作る」これは何もハサミに限った話ではなく、行政や学校、制度についても言えることだ。それらは、とかく型にはめたがるが、息子のように型にはまらない者まで型にハメようとする。もはやできないことが悪という時代ではなく、どうすればできるか、知恵を出し合う時代だと思う。そのためには、一方的に型にはめたり、分け隔ててはいけないと改めて感じた。

 

幼稚園のクラスメイトは、息子を通じて普通じゃないハサミがあることを知っている。

幼稚園死闘編⑨「交流ではなく直流で」

幼稚園に通い始めて、息子の付き添いにも慣れてくると、教育委員会とのプレ教育相談があった。内容は小学校はどうするのか?というものであった。

 

我が家としては、地域の学校の普通級ですとのみ伝えていたが、その点に納得いかないようで、「支援学校なら息子さんに合った教育をうけられます」であるとか、「支援学級では交流があります」と説得された。その子に合った教育と言うなら、私にも施してもらいたかったし、よしんば支援学校でそれができるのであれば、なぜ地域の学校でできないのだろうか?とも思った。

 

通学にも問題があった。地域の小学校なら歩いて通えるのに、支援学校へ通うには車で40分以上かかる。そして、息子のような呼吸器ユーザーは通学バスに乗せてもらえない。このような差別的取り扱いを受けて、結局は保護者の送り迎えとならざるを得ない。通学に不安があり、地域とも分断される。

 

そして、交流ということをよく言われるが、交流のそもそもの意味は次のようになっている。

 

こう りゅう かうりう [0] 【交流】

( 名 ) スル

① 異なる地域・組織・系統に属する人や文物が互いに行き来すること。 「東西文化が-する」 「人事-」

三省堂大辞林より引用

 

言葉の中にすでに異なるものと言う定義づけがなされている。私がこの言葉にこだわるのは小学生時代の体験がもとになっている。

 

私の通っていた小学校の近くに当時はろう学校といっていた支援学校があり、小学校の一角に一時養護学校もあった。だいたい1年に1回程度○○交流という名の集いがあったが、普段は分けられていて実際いつも付き合っているわけでなく、どう接して良いのか、わからなかった記憶がある。あくまでもよその学校からのお客さん程度の認識でしかなかった。

 

かたや私のクラスの中には自閉症の子がいたが、彼の特性はクラスのみんなが知っていた。何をしたら嫌がるか、どうすればお互いの思いが伝えられるのか、毎日の学校生活の中で少しづつ理解していった。障害があっても当たり前に一緒に育って行ったという体験をした。だから私は「交流もできますよ」と言われたときには「直流でいいです」と答えている。

 

実際にかかわって、付き合うことなしに社会のバリアはなくならない。そして一度分断された地域とのつながりを作るには、子どもの頃の何倍ものエネルギーが必要だと思う。なにより地域とは、生活の基盤であり故郷でありバックボーンだと思っている。それをズタズタにはしてほしくないし、させない。その子に合った教育と言うならその生活範囲を含めて言ってもらいたい。そう思わずにはいられない。

幼稚園死闘編⑧「オヤジ幼稚園に行く」

春先にプチ入院はしたものの息子は、その後は順調に登園していた。そして6月に入った蒸し暑い日に、私が息子に付き添って初めて幼稚園に登園した。漢祭り幼稚園ヴァージョンであるが、息子と二人だけで外出するのは実は初めてだったかもしれない。

 

登園前に持ち物チェックを入念にして、車に乗って登園する。幼稚園の近くのお寺の駐車場に車を止めて、そこから150mくらいを歩いていく。本来ならば幼稚園に車が止められればいいのだが、諸般の事情でそれができない状況だった。

 

入園許可が入園直前まで出なかったため、登園方法についても白紙の状態であった。それまでは幼稚園からの呼び出し、話し合いのときには1㎞の道のりを歩いて行っていた。途中まで歩道もなく、朝のラッシュ時は交通量の多い道を徒歩で通うことに不安があったのでどうしたものかと思っていた。すると同じマンションに住んでいる幼稚園の先輩ママさんから「幼稚園の近くのお寺に止めさせてもらえるかも」ということを教えていただき、すぐに家族3人でお寺に事情を話して許可をいただいた。この時に地域で生活しているといろいろな人が助けてくれる、ありがたいなと感じた。

 

ちょっと話はそれたが、緊張しながら朝の一連の流れを他の子どもたちに教えてもらいながらやった。まず、外に出て遊ぶ。息子の備え付けテーブルの上にクラスメイトがいろいろな物を持ってきてくれる。葉っぱ、草、泥だんご、砂。その後、室内に入って体を使った遊びをする。これをすると筋緊張で硬かった息子の腕が、みるみる柔らかくなってきた。歌を唄って、工作をして午前中が終わる。

 

このあと幼稚園ではお弁当となるのだが、息子の体力を考慮してこの頃はここまでで帰宅していた。息子の様子を見つつ、活動に参加して他の子どもにも気を配る。気を配るというか、ほとんど園のスタッフのごとく、面倒を見る。集中力と体力を使い果たし、この時点でかなりヘロヘロになっていた。付き添い、恐るべし。妻はこれを毎回やっているのかと思うと、何とか改善しなければならないと思った。

 

かくして、オヤジの幼稚園デビューは終わったが、息子の楽しそうな笑顔は一生忘れないだろう。

幼稚園死闘編⑦「ばら色の幼稚園生活」

ばら組になって幼稚園生活をスタートさせた息子には、バラ色の毎日が待っていると期待していた。入園した週と次の週は、午前中の登園と体調を整える休みを入れながら通園した。しかし、慎重を期していたにもかかわらず2週目の週末になると気道内圧、脈拍ともに高くなり、日曜日だったが病院を受診すると即入院の宣告を受ける。

 

そんな風に入園して1週間の入院はしたが、幼稚園最初の4月場所の星取表は白星(出席)7・黒星(欠席)8でまずまずの成績を残して少し安心もした。

続く5月場所は白星12黒星9で勝ち越し、6月場所も白星13黒星6で二場所連続の勝ち越しとなった。

 

7月にもまた体調不良のために1週間入院した。結果的に夏までに二回入院した。去年秋から入園直前まで半年間もゴタゴタが続き、これまで温室育ちの箱入り息子だったのが、未知の世界である幼稚園にほぼ毎日登園し、いろいろな刺激を受けて帰ってくる。息子からすると、環境の変化が大きく心も体もびっくりしたに違いないと思った。息子の人生でこれからも何度も訪れるであろう大きな環境の変化を、人並みに体験することができたのは、ちゃんと正式入園をしてばら組になったからだと思えた。

 

最初私は、自分の息子がクラスの中で抜きんでて休んでいるのかなと思っていたが、妻によるとまわりの子どもたちもそこそこ休んでいるとのことだった。幼稚園から小学校低学年くらいの子どもは、その年頃の子と関わりのない人からすると、想像以上に、よく体調を崩し、よく休む。これは、地域の幼稚園に息子が入園したことで新たに発見し、実感したことであった。

 

よく地域の幼稚園・保育園・小学校を諦めさせようとして、行政・教育委員会が使う言い分として「お子さんのペースで通うには、それ相応の環境(療育園や支援学校など)がいいのでは?」というものがある。しかし、そんなことはない。どんな環境であれ、その子自身の体調に合わせて、通園・通学するのは、呼吸器をつけた子や障害のある子に限らず、健常児でもごく当たり前のことである。

 

そして、息子はこの二回の入院で、完全にペースを掴んだらしく、その後はなんと卒園までの2年間、大きな体調の崩れはなく入院もせずに「ばら色」の幼稚園生活を送ることができた。

幼稚園死闘編⑥ 「心臓バクバク入園式」

入園決定から数日後に迫った入園式やその他もろもろの準備をしながら、長かった入園闘争を振り返った。妻は本当に大変だったと思う。親の付き添いは、外せなかったものの正式入園できて良かったとしみじみ思った。

 

入園式当日、暖かい春風の中を晴れがましい顔をした息子と「おめでとう」と掲げられた門をくぐり、会場に入った。クラス名簿に自分の名前を見て、息子はどう思っただろうか?

親としては、彼が人生ではじめて獲得した他者と共有する居場所だなあ、と感慨深かった。

本来そんなことは当たり前で感慨に浸る必要はないことなのだけれど、医療的ケア児であるが故の何とも言えない苦い思い出だ。

 

クラス分けでバラ組になった息子は、名札をつけて入園式に出席した。式場から退出するとき、来賓で来られていた地域の小学校の校長先生が「小学校で待っているよ」と息子に声をかけてくれた。少し驚いたが、幼稚園死闘編②にも書いたように幼稚園と小学校の管轄が市教委だから話が通っているのかなと感じた。

 

クラスに入った息子は、緊張した顔でクラスメートたちを横目でチラチラ見ていた。

きっと心臓はバクバクしていたに違いない。

いよいよ息子の地域社会生活のスタートが切られた。

ここから何が起きるか、楽しみで仕方ない。

『こんな夜更けにバナナかよ』を見て

新年早々行ってきました、息子と初めての“シネコン”。

息子と妻は何度かシネコンで映画を見ているのだが、私とはこれが初体験。

ここはロックに『ボヘミアン・ラプソディー』にしようか

とも思ったが、呼吸器ユーザーの親ならば『こんな夜更けにバナナかよ』を

見ないわけにはいかないだろうとなって、当日を迎えた。

 

詳しい内容は省略するが、息子はリアルガチの呼吸器コスプレ?で車いす席に

陣取り、映画を鑑賞した。

1994年、私が2〇歳の時から話が始まり、衣装や心くすぐられる小物など、

あの頃にタイムスリップしたような気分になった。

映画は極上なエンターテインメントとしてまとめられ一見の価値ありだった。

 

映画を見て感じたことは、人と人とのつながりについてだった。

主人公が望み、実践した自立生活には、マンパワーが絶対的に必要であった。

しかしまた、ケータイもPCも今ほどには使えなかった時代のことでもあった。

福祉サービスもまだまだ黎明期のことで、今ほどは充実していなかったのである。

しかし、主人公の周りにはたくさんの人が集まり、その中には濃密な人間関係があった。

現在は情報こそあふれてはいるものの、肝心な人と人のつながりはどうだろうか?

情報量に反比例するように希薄になっているように思える。

そして主人公が、大勢の人を引きつける圧倒的な人間力の源は何かと考えてみた。

それは生きるという根源的な欲求が、周りの人々にストレートに伝わっているからだと思う。

文字通り人生を「命をかけて」生きているから。

 

そこで今年も、青臭くも泥臭く「命をかけて」生きていこう、顔の見える繋がりを増やして

いこうと新年をスタートした。

 

次回は幼稚園死闘編⑥掲載予定です。

幼稚園死闘編⑤「春が来た!」

3/26幼稚園から連絡があった。妻と息子が幼稚園に行くと念書らしきものを提示される。

 

そこには入園に際して、幼稚園の現状の施設環境や教員体制を理解したうえで、園生活には、保護者が必ず付き添い、保護者の責任において、安全に配慮します。との文言が入っていた。

 

妻は持ち帰って相談するということで保留したそうだが、賢明な判断だったと思う。このような文章を残すことは、あとに続く人たちのプラスになることはないと考えられるし、そもそも他の入園希望者が書いていないものを、なぜ我が家だけが書かなければならないのかということに疑問があった。

 

また数日が過ぎて、ついに4月となり新年度がスタートした。このままでは無所属かと思われたが、4/3に幼稚園で打ち合わせが決まった。どうやらこの間、教育委員会と我々の間に入ってくれた市会議員さんが、いろいろ折衝し、調整をしてくれたようである。ここ一番と思い定めて私は仕事を休み(本来なら仕事的に、新年度始まってすぐには休めないのだが)、息子は通園用に使うため自分で選んだ黄色いカバンをもって幼稚園に行った。

 

両親と支援者の方と、市会議員さん、教育委員会の方、幼稚園の先生方総勢13名に囲まれ息子は緊張の面持ちだった。今回は、前回とは一転し、先日の念書らしきものは提示されず、入園許可書(入園式でもらう)に「保護者付き添いのもと」という一文と誓約書(入園式以降に全員が提出するもの)に「幼稚園の人的配置を理解したうえで」の付けたしがあるということを、両親が了承した。

 

この年度から新しく赴任した園長先生から、直接息子に「入園予定者通知書」が手渡された。それまで緊張していた息子が、一気に笑顔を爆発させた。最高の笑顔だった。それを見て、あきらめなくて本当に良かったと思った。

 

長い長い冬が終わり、やっと春が来た。

 

だがしかし、これがゴールではなく、ここからがスタートなのだ。入園式までの数日間、バタバタと忙しく過ごした。事実上の地域生活デビューに向けて。BGMは歌詞が気に入っているスピッツの「春の歌」

 

しかし、当時は障害者差別解消法もなかった時代であった。現在は、その障害者差別解消法も施行されているのである。当たり前のことなのだが、本人や保護者が望む入園入学先でスムーズに新生活がスタートできるような社会にならなくてはいけないと切に思う。

 

子どもたちにとっては一生に一度しかない入園入学の春なのだから。

幼稚園死闘編④ 「入園前の長い冬②」

新年を迎え、初詣では「息子が幼稚園に正式入園できますように」と祈願した。しかし、『人事をつくして天命を待つ』までの境地には程遠いほど人事の部分は残っていた。

 

1/26おしゃべり会参加。現状の報告をする。願書を出しているのに回答がないのはおかしい。人事的なことが本格的に動き出す前に、4月からの正式入園を希望する旨伝えたほうがいいとアドバイスをいただく。

 

1/31幼稚園に妻が、4月から正式入園を希望することを再度申し入れる。園長から自分は今年度で定年退官するので、次の園長に託す形になる、と強調される。また一般の家庭であれば願書を提出して、入園予定者書を受け取り入園説明会の案内があるのだが、我が家には何の連絡もなかった。このころは、私が帰宅すると妻がバクバクの会の副会長に電話で相談していることがしばしばあった。

 

2/12幼稚園より電話で明日、市教委を交えての話し合いを持ちましょうと連絡あり。この日、妻と息子以外に、バクバクの会副会長、支援者の方の同席をいただけることになったのは幸いだった。はっきり言ってこんな重要な話し合いを前の日に連絡されて、私としては仕事の都合もつけられず、非常に不愉快な思いを抱いた。

 

2/13私は不在であったが、妻がこれまで通りなぜ正式入園にこだわるのかという両親の共通の見解を伝えた。会議自体は2時間近くになり息子はほぼ寝ていたらしい。まさに不毛な会議だったろうことが想像される。息子ならずとも寝てしまうだろう。またこの日に、入園説明会の存在を初めて知り、入園も決まっていないのだから、来ても来なくてもいいという園長に対して、妻は自ら参加を直訴したという。

 

2/15入園説明会。父不在。またここでも願書提出直後にほかの家庭には配布され、我が家だけもらっていない資料(家庭環境調査書・入園までの日程)があることが判明。入園の回答は保留され、情報も資料も提供されない差別的取扱いのオンパレードだ。

 

3/4妻が幼稚園に電話して、見学の問い合わせと状況について確認。市教委からは何も言ってきていないとの回答。

 

3/9おしゃべり会参加。1,2月の流れと、進展がなくこのままずるずる新年度になるのではないかと危機感を伝える。週明けに電話確認し、教育関係に詳しい市議会議員さんにも確認してもらうようにといろいろとアドバイスをいただいた。

 

3/11妻が市教委に電話。そのなかで、直接話し合いに参加できていない私(父親)が、書面にて何かしらの回答を強く希望している旨を妻から伝えてもらった。市会議員さんサイドから行政への聞き合わせでは、市教委は親御さんの意向に沿いたいが、なにぶん初めてのケースなのでと、しきりに繰り返していたそうだ。

 

3/13幼稚園から電話。「市教委から、進路について来週か再来週には方向性を出す」との連絡があった。

 

年明けからずっとこんな調子だった。直接交渉していない私は妻にばかり負担をかけているなと感じていた。息子は自分の進路がいつまでたっても決まらないことを不安に思っていたことだろう。本来はドキドキワクワクする期間を与えてやれなかったことは本当に申し訳なかった。

 

入園前の長い冬はいつまで続くのだろうか。

幼稚園死闘編③「入園前の長い冬①」

 自主通園を楽しむ息子
 自主通園を楽しむ息子

ここからは時系列で記述してみる。

 

11/6願書提出。

 

11/12妻によると私が出勤した後の9時前に幼稚園の園長から電話があった。15時から入園に関して話がしたいとの申し出であった。こちらの予定を確認することなく一方的な連絡だった。こういう突然の呼び出しにも応じられないようでは、とうてい幼稚園に入園なんて無理ですよ、というわけだそうだ。妻はすぐにバクバクの会の副会長と支部幹事に連絡を取り、相談をしてから、15時に幼稚園へ息子と出向いた。幼稚園では自主通園(交流保育)を勧められる。また看護師配置できないため親の付き添いが確実に必要となるだろうから、入園までに試しに母子ともに耐えられるかどうか、園の見学(試し通園)を提案される。

 

11/13妻と息子で幼稚園見学。

 

11/14妻と息子で幼稚園見学。避難訓練体験。このとき、園長から非常事態ではほかの園児も守らないといけないので、あなたのお子さんに割ける人員はいない。お母さん一人でお子さんを守るのですよ、と言われたそうだ。市教育委員会主事と面談。

 

11/15息子の病院受診。私も休みだったので3人で幼稚園へ行く。少しの時間ではあったが、幼稚園入園志望の理由として、地域の中で同世代の子どもと共に育ってほしいという両親の想いを伝える。そこで、もし交流保育からスタートしても途中から正式入園に移行することも可能かもしれないという甘言を囁かれ、正直、それでスムーズにいくならそれも選択肢の一つなのか、とも思ってしまった。

 

11/17父所用のため妻と息子とヘルパーさん。広島市の就学を考えるおしゃべり会に初参加。現段階の状況を説明しそれに対して、「そこまで話しているなら正式入園でいいのでは?」とのご意見をいただく。その後、家族で話し合い交流保育に満足するのではなく、4月からの正式入園をめざすことで意思統一する。

 

このときまで息子は、その体力面を考慮して連続で外出したことはなかったのだが、よくがんばったと思う。大人の事情で緊迫した場面の連続でさぞ緊張もしたことだろうとも思う。自分を取り巻く社会の壁がいかに高いかも感じてくれたと思う。我が家では息子に関する話し合いには、必ず本人を同席させることにしている。それは取りも直さず息子の人生に関わることを、息子抜きで決めることはできないと考えているからだ。

 

この後、さらに年内に4回幼稚園見学。

 

この間、こちらの想いをなんとか揺らがせようとしてか、再々行われる園長や教育委員会との面談ではかなり差別的なことを言われ続けたと妻は言う。たとえば、「幼稚園の2年間に健常児はものすごい成長を遂げる。その間、あなたのお子さんはおそらくほとんど成長はできないだろう。周りのお子さんからどんどん置いて行かれるお子さんを見て、お母さん、あなた、耐えられますか?」や「これはお母さん一人の考えじゃないんですか?お父さんも同じ意見ですか?お父さんのお考えも聞いてからでないと判断できませんね」など、帰宅して妻から聞かされた私は怒りがふつふつしていたことを覚えている。

 

そして、幼稚園入園について越年交渉が決定した。

幼稚園死闘編②「幼稚園か保育園か、それが問題だ」

前回にも書いたことと重複するが、在宅生活に入ったとはいえ、息子が外へ出かけるのは土日祝日の数時間程度だった。

同年齢の子どもたちとの接点はあまりにも少なかった。

 

息子の人生に一度しかないこの時期を無駄にしたくはないと思い、何とか子どもたちとのかかわりを持たせたいと願った。

 

そこで就学前活動となるのだが、未就学児には大まかに2つの選択肢がある。

幼稚園か保育園かである。今日では両方の機能をあわせ持つ認定こども園もあるが、当時は幼稚園か保育園が一般的だった。我が家の近所には公立の幼稚園も保育園も両方あった。バクバクの会の先輩方は看護師配置のある保育園を選ばれるケースが多かったように思う。

 

わが家もどちらにするのか、戦略を練りに練った。念頭にあったのは小学校入学だった。息子のように医療的ケアの必要な子どもは、入学時にも壁があることが分かっていたので、小学校にすんなり入学するために、管轄が同じ教育委員会である幼稚園を選択した。

 

作戦が決まれば行動開始と、入園年齢の一年前の春から(広島市立の幼稚園は2年保育が原則のため4歳入園)、未就園児対象の親子教室(月2回程度)に通い始めた。息子は初めてのお友達の中で、おっかなびっくり、こわごわ物珍しそうに周りをうかがっていたり、時にはにこにこしたりしていたようだ。と、同時に、幼稚園や周りの子どもたちや保護者の反応を見てみたが、そう悪い感じではなかった。

 

運動会では、未就園児かけっこに私と一緒に参加し、短い距離だが風を切って走った。ゴールした時に年上の在園児さんからメダルを首にぶら下げてもらい、達成感と高揚した様子の我が子を見ると、なにがなんでもこの子にこの環境をあたえてやらねばなるまいと決意を新たにした。

 

親子ともどもワクワクしながら、11月に入園願書を提出し、そして事件は起こった。

幼稚園死闘編①「虎に翼」

息子が家に戻って、生活のリズムも出来あがってきた。

方々に出かけたりして、家族で在宅で生活することに対して自信も少しづつついてきた。

そろそろほかの子どもたちと遊ばせてやりたいと思っていた。

妻が療育園に問い合わせた。「人工呼吸器をつけているのですが、通えますか?」

と言うと、担当者が「それは大変なことですね、こちらでは何もできることがありません」

と、にべもなく断られてしまった。

今現在は障害者差別解消法もあり、さすがに門前払いはないと思うが…

 

これで妻の闘志に火がつき、「よし、専門機関が断るなら、地域で育てよう」と決心したそうだ。それまで、私たちは、どちらかというと、息子のような「重症児」こそ「療育」といった枠組みで育てるべき、と考えていた節があった。それがこのような扱いを受ける。「療育がなんぼのもんじゃい」と反転したとて、不思議はなかった。

 

わが家ではもともと地域の幼稚園、保育園から小中学校へと考えていた。この事件はその方向性をはっきりとさせてくれた。後に療育園とのやり取りを思い返したとき、療育園はよくぞ断ってくれたもんだ。我が家を「虎に翼をつけて野に放ち」やがったなと感じた。

息子が外へ出ようとして初めて、世に言う「障害者と世間の壁」に直面した出来事だった。

 

改めて言うが、障害というバリアは、当事者の側ではなく、社会のほうにこそあるのである。

息子のように人工呼吸器をつけて車いすに乗っていても、地域の学校に通う。

この大前提の元に我が家の就学前活動がはじまった。

西日本豪雨災害ボランティア

西日本を中心とした豪雨による災害におきまして、被災された皆様にお見舞い申し上げます。

 

7月の三連休、はじめどんのつぶやきをアップするべく準備していると、友人から電話があった。飲みにでも行く誘いかと思っていると、力ない声で親せきが土砂災害で被災しており、土砂を除く手伝いをしてくれないかという依頼だった。特に予定もなかったが、事務仕事しかしていない私では大した戦力にならないかもしれないとは思ったが、少しでもお役に立てるならと思い直し手伝わせていただくことにした。

 

前日に妻と相談して、熱中症と粉じん対策などして早朝から出かけた。テレビなどで見てはいたが、現場は想像を絶する様相を呈していた。クルマが土砂に埋まり、家屋の一階部分は人の背丈以上の土砂が流れ込んでいた。重機もまだ入れず頼れるのは人力だけだった。人力だけだと、報道されているような粉じんは起こるところまでさえも行きついておらず、結果的にはゴーグルやマスクはまだ不要であった。報道がすべてではない。と強く感じた。

 

猛暑の中で、土砂のかき出しと休憩をしながら様々なことを考えた。

 

我が家のような災害弱者は、災害を臆病なほど警戒しなければいけない。そして今までの経験は当てにならない。我が家の居住地広島では4年前にも大規模な土砂災害があった。あの時にも今までに経験のない雨の降り方と雷の鳴り方だった。災害から身を守るには、自然の力を甘く見てはいけないこと。正確な情報を得る手段と知識を持つこと。避難勧告・指示が出たとして、はたして、その段階で自宅から避難するのが最上の行動なのかということも、判断せねばならない。実際に、この度の大雨の時は、居住地域は浸水・冠水している道路もあり、もっとひどく降り、避難指示が出たとしても、頼みの綱の避難所(息子の小学校)に行くよりは、マンション上階である我が家にいたほうが安全であっただろうと思う。のちに聞くと、最終的な駆け込み寺と考えていた大学病院は敷地内があちこち浸水をしていて、主治医の先生が帰宅をためらうほどであったらしい。

 

災害とは、もういつでもどこでも起こり得るものとシミュレーションをして備えるべきものとなってしまった。そして、ある意味そんな備えの中でも、一番大事なのは地域に存在を知ってもらうことかもしれない。今回のボランティア参加では、これらのことを強く強く考えさせられた。

 

最後に被災された地域の一日も早い再建と復興を、心からお祈り申し上げます。

タイガー&ドラゴンⅡ 日曜日よりの使者

二代目キューちゃんドラゴン
二代目キューちゃんドラゴン

まだタイガーが獅子奮迅の働きをしていたころのことだ。吸引器には吸い上げた喀痰を溜めるカップがある。このカップは使い捨てではなく洗浄が必要となる。毎日いや毎回洗浄すればいいのだが、一台しかなく、洗浄中にもしゴロゴロさんが訪れるとすぐに対処できない。そのため私と妻がそろって家にいる日曜日に洗浄していた。

 

喀痰を溜めるので、夏場は、においも気になる。少しでも快適にならないかと思い台所用洗剤を少し入れて作動させると大量の泡が発生して失敗した。洗剤はダメだったので、泡の出ないものを探してみると夏の入浴のときに湯船に垂らして使っているハッカ油があった。

ミントの香りでリラックスできてにおいも抑えられるかもしれないと思い、使ってみた。泡も出ることなく、ミントの香りで満足いくものだった。

 

何度目かの吸引時に吸い上げる力が弱々しくなった。接続やカップの密閉具合を調べてみると、カップの底に細かいひび割れがあった。この時にはカップ自体を長い間交換していなかったのが原因だと思ってカップを新しいものに交換した。

 

次の週の日曜日も同じように洗浄し、ハッカ油も使用した。何回目かの吸引時に、先週と同じ現象が起こってしまった。毎週日曜日に訪れる恐怖。日曜日よりの使者かなどと思っていた。しかし、時をさかのぼって考えてみて、ハッカ油にたどりついた。日曜日よりの使者はハッカ油だった。

 

後でググってみると、ハッカ油はプラスチック製品では保存できません。ボロボロになりますと書かれていた。自らの行為に恐怖し、馬鹿さ加減に涙が出た。

 

この事件から得た教訓は、まさに『生兵法は大怪我のもと』そして洗浄はこまめにしようということだった。

 

そんな策に溺れる小策士の我が家の一員として、今日もタイガー&ドラゴンは、息子の「〽オレの オレの オレの痰をひけー」に呼応して、ドドドォ~‼と馬力あるコーラスを入れてくれるのであった。

タイガー&ドラゴンⅠ

お断り 今回のつぶやきはドラマ、歴史上の人物(甲斐の虎や越後の龍)とは一切関係ありません。

息子の生活必需品シリーズ吸引器についてのつぶやきだ。「習うより慣れろ」(4月16日参照)でお馴染みのゴロゴロさんこと喀痰を吸引するため欠かせないマシンだ。

息子の退院が決まってどのタイプの吸引器にするか検討した。結果はコンパクトで馬力があり、持ち運びできるトートバックキューブに決定した。

 

カバーの色は広島らしく赤系(カープ)か紫系(サンフレッチェ)があればいいなと思っていた。しかし、実際には黄色と黒のリゲインじゃなく阪神タイガースカラーがやって来た。

そしてこの吸引器は、まぁシンプルにキューちゃんと名付けられた。

当初はキューちゃんが1台しかなかったので、息子が車いすに移乗するときには、呼吸器と一緒にもれなく付き従っていた。

 

やがて月日は流れ、キューちゃんもベテランとなった。故障やバッテリーの持ちも悪くなって、往年のような輝きはなくなり、連続出場もキツくなってきた。

一般的には戦力外通告や引退勧告となるところ、我がチームでは、長年の功績を讃えキューちゃんの残留を決定した。主な活躍の場をブルペン(息子の在宅時)へと移し、新しい主戦として、キューちゃん1号の使い勝手が良かったので、同じ機種を1位指名して獲得に成功した。

 

新人はグレーに紺のカバー色で、中日ドラゴンズの旧ビジターユニフォームにそっくりだった。このためドラゴンと命名し、車いす専用としてデビューした。その命名により、同じ吸引器同士のややこしさを避けるためにもキューちゃん1号はタイガーと名を改めることとなった。

 

そしてこの事件は、そんなタイガーが現役バリバリで働いていたころ、カップの洗浄時に起きたのだった。

無限軌道と馬車馬

難敵の砂浜
難敵の砂浜
馬車馬参上
馬車馬参上

今回は文学的なタイトルだが、中身はぼやきです。

 

無限軌道とは何のことはないキャタピラのことだ。車いすにとって大敵は段差・砂・ぬかるみ・

砂利道そして坂などがある。

 

しかし外に出ていけば、これらはそこら中に転がっている。公園・砂浜・神社仏閣などは、ほぼこれらでできている(これぞ偏見)。

 

砂利道しかない場合は前輪を上げてのウイリー走行であったり、後ろ向きで引っ張ったりすることになる。呼吸器その他諸々の装備と息子を合わせて推定60㎏近くになると心が折れそうになることも多々ある。今真剣に考えているのが、車いすにキャタピラが装着できないだろうかということだ。もし可能ならガンタンクだなと笑いをかみ殺すが、悪路での走破性が格段にアップするのは確実だ。

 

極端な上り坂では丈夫な平織ひも(妻によると、ハンドメイドの手提げかばんなどの持ち手によく使うものらしい)を利用して引っ張ることにしている。引っ張っている姿が馬車を引く馬のように見えるので、我が家では「馬車馬(ばしゃうま)」と呼んでいる。当然、引っ張るだけではなく、押し手も必要であるので、馬車馬が登場するときは2人以上の介助者がいることが条件になる。かなりキツイ坂でも登れるが、足腰への負担は半端ないことこの上ない。そして、押し手との呼吸が合わないと、しばしば車いすの前輪にひかれてしまう。

 

車いす利用者が外へ出て行くには、多かれ少なかれ創意工夫と、社会全体で取り組む合理的配慮が不可欠だ。本当の意味でのバリアフリーが浸透して、誰もが暮らしやすい社会になるまで、私と息子と妻は、無限軌道と馬車馬で突き進んでいく所存だ。

緑の騎士 ルビー Ⅱ

実際に現物で合わせてみると、カタログ値ではいけたものが、車のシートと車いすが干渉して所定の位置に乗れないことが判明した。おそらくだが、福祉車両は標準タイプの車いすやストレッチャーベースで作られているので、特殊な形状の車いすや大型のストレッチャーはコンパクト仕様の車には乗らないことが判明した。

 

また、余談ではあるが我が家の購入検討の対象ではなかったが、このころ、爆発的に出始めていた某軽自動車の福祉車両では、なんと乗り込むときに利用する後方スロープの幅が息子の車いすより狭すぎて、そもそも車内への乗り入れすらできないということもあとあとわかった。その後、担当者間で検討を重ねて、シエンタの3列目なら乗車可能であるとの報告があった。もしものときは、運転してないほうの人間が、シートを乗り越え、3列目の息子のそばに行けることも確認した。

 

こうして、やや寄り道はしたが、車種はシエンタに決定した。色は何色がいいだろうとなり、車が7月納車予定で7月の誕生石はルビーなので、カープの赤にと思った。が、当時息子は緑色が好きだったのでグリーンメタリックになった。名前は7月の誕生石ルビーとして「緑の騎士 ルビー」となった。

 

息子を格納して移動するホワイトベースもといムサイ(意味が知りたい方はググってみてください)を得て行動範囲と安全性は格段に向上した。この場を借りて、このとき、文字通り奔走してくださったF社のY氏とTC社のU氏に感謝します。

緑の騎士 ルビー Ⅰ

息子を支える力士たち(車いすのこと1.28 3.4参照)の申請を終え、車での外出が増えるようになると、乗り降りするときにどうするかという問題が出てきた。

 

乗るときは息子を車いすから降ろし、呼吸器と息子を同時に乗せるか、いったん分離してアンビューバッグ(という手動式呼吸器)で押しながら乗せることになる。降ろす時も同様の作業が必要となる。大変に手間もかかるし、呼吸器がゆるんだりして外れてしまわないか、など安全面でも不安がある。

 

やはり、車いすと息子と呼吸器を一度に乗せるのが一番良い、そうなると車を福祉車両に買い替えるのがベストだろうということになった。

 

バクバクっ子必携書の便利手帳には福祉車両のコーナーがあり、車いすのまま乗降できるスロープ、リフトなどが紹介されている。これを参考に、まだ車いすはできていなかったが、福祉車両がどんなものかリサーチするためにディラーヘ行ってみた。実車はなく、数台ある福祉車両のカタログから検討することになった。

 

予算面と、軽自動車しか運転したことがない妻でも不安なく運転ができるだろうということと、それから車いすが助手席うしろの場所まで乗せられるラクティスにしようということになった。車種は決まったものの車いすと車のマッチングが必要なので、車いすの担当者とディラーの担当者が現物を持ち寄って検討してくれることになった。

 

ここで事件が起こった。

緊急‼ 漢(おとこ)祭り

この冬、妻が流行り病(インフルエンザB型)に倒れた。息子に感染しては大変と即別室へと隔離した。

 

その間、息子は日中、学校へ行き(妻が送迎だけはフラフラながらがんばってくれた)授業を受け、帰宅後は訪問看護師、ヘルパーにケアしてもらう。

 

そして、夕方からはオヤジとともに過ごすことになる。私もひと通りのケアはできるので、これまでも妻の外出や宿泊時(法事などで単身実家へ行くこともある)も漢(おとこ)2人で、漢(おとこ)祭りと称して過ごしていた。

 

なので、大して不安感はなかった。しかし、こんな時に限ってゴロゴロさん(4/16「習うより慣れろ」参照)が頻回に登場する。何度か撃退したものの、どうも気道内圧異常のアラームが治まらない。これはカニューレの詰まりが疑われる。こうなればカニューレ交換するしかないのだが、一瞬のうちの手順が多く(4/9「退院準備…見るとやるとは大違い」参照)なにより息子の安全面を考慮し、通常は両親2人がかりで交換する。

 

しかし今回の場合、インフル罹患妻と二人で交換すると多重感染の恐れもあり、耳鼻科医が1人で交換する様子をこれまで何度も見ていたので、1人での交換を決意する。

気分は手塚マンガのブラック・ジャック(大げさだが自分を鼓舞するため)、いま一度、手順を確認、準備を整える。

 

いざ、交換。

 

オヤジの緊張感を感じとったのか、目を大きく見開いてはいたが息子の協力もあり(まさに阿吽の呼吸である)、何とかやりきることができた。事なきを得てホッとした。

 

今回はかなりハードな漢(おとこ)祭りだった。もうインフルならんでや、母ちゃん、という気持ちと、これでもういつなってくれても大丈夫だよ、という気持ちが複雑に絡み合う父子の心境であった。

デンマーク生まれの力士 青龍 赤龍Ⅱ

車いすのタイプも決まり、医師の意見書も出来あがったので、オヤジの重要な仕事でもある役所への申請へ平日休みの貴重な時間を使って出かけた。まぁ書類もそろっているしチャッチャと終るだろうくらいの軽い気持ちで行ったのだが、窓口で書類を提出すると、途端に雲行きが怪しくなってきた。

 

担当者曰く、「車いすはわかりますが、この座位保持車いすはなんですか?」オヤジ「室内で利用するものです」担当者「車いすが2台も必要ですか?だいたいうちの区では2台同時なんて前例がありませんよ」オヤジ「え?外で使う車いすを室内では使いませんよ。座面が上下動できないし、そもそも医師が必要と認めているものですよ!」これはほんの一部だが、不毛なやりとりが続いた。今思えば、あんたは室内スリッパで外出するのですか?と言ってやれば良かったと思うくらいである。

 

役場はなんでもかんでも前例ありきである。前例がなければ動けないのか。すべてのことになんでも「初めてのケース」があることを知らないらしい。何とか押し切ったが、行政との交渉に不慣れな人は心が折れてしまい、申請を変更してしまうのではなかろうか?この何年か後に、我が家でも、妻が役場と吸引器(耐用年数が超えたため再申請時)をめぐるイザコザがまたも発生した。

 

こういった申請についてはほとんどが初めてのことであり、行政側の仕組みもわからないことが多々ある。制度は一般の人間にとって、非常に難解で複雑な仕組みになっている。そのため、どれだけのエネルギーを使って書類を作成しているのか、ということを役場の人間は忖度して、もっと当事者に寄り添った対応をしてほしい。

 

しかし、こうしてやっと青龍・赤龍が我が家の一員となった。

 

青龍は家の中で、息子の家庭学習(主に学校の宿題)を、赤龍は外の世界でそれぞれ生活を支えてくれている。ともに机を差し込めるので、便利であった。

 

そして赤龍は息子に様々な体験を与えてくれて2017年に引退し、イタリアうまれのアズーロ号が引き継いでいる。

デンマーク生まれの力士  青龍 赤龍Ⅰ

座位保持車いす『青龍』
座位保持車いす『青龍』

今回は息子の生活必需品シリーズのつぶやきです。

 

息子のように肢体不自由であると、外出時には車いすが必需品となる。

そして車いすにもいろいろなタイプがある。オーソドックスな車いすタイプ・バギータイプ・ストレッチャータイプなどである。

 

我が家では当座大きめのベビーカーで代用してきたが、酸素ボンベその他諸々の荷物も載せられないなど不便さがあった。身障者手帳が交付されたのを機に車いすを申請することにした。

 

病院に車いすの申請意見書を作成できる医師がいたので、バクバクっ子必携書『バクバクっ子の為の生活便利帳』を参考にしつつ話し合った。

 

結果として息子にはバギータイプがよかろうということになった。それにプラスして外出用ではなく自宅で利用する座面がアームで上下動する座位保持いす(下部に呼吸器を載せる台がないため外出用よりはコンパクト)も同時に申請することになった。

 

カタログを見て車いすは赤色ベース、座位保持いすは青色ベースに決定した。そしてどちらもデンマーク製であった。

 

道具などに愛称をつける我が家の流儀として彼らにも名前をということになった。海外から来た息子を支える力士的存在ということで当時大相撲で活躍していた朝青龍関(2010年引退)、朝赤龍関(2017年引退)より、座位保持いすを青龍(しょうりゅう)、車いすを赤龍(せきりゅう)と名付けることにした。

 

この青龍・赤龍申請時に事件は起こった。

 

つづく

ベタ踏み坂

写真は昭文社『まっぷる鳥取大山境港』 2016.12.15発行より
写真は昭文社『まっぷる鳥取大山境港』 2016.12.15発行より

みなさまあけましておめでとうございます。今年もぼちぼち書いていきますので、よろしくお願いします。

 

新年初つぶやきは、昨年家族旅行で訪れた 鳥取県の江島大橋での出来事。この江島大橋はクルマのCMに登場し、『ベタ踏み坂』として有名である。観光ガイドなどの写真を見るとまさに壁のように見える。境港の近くなので、水木しげるロード観光のあとに行ってみた。

 

*ネタバレ注意*

観光用の写真は、はるか遠方の海上から撮影されたようで、橋の近くでは、家族で相当いろいろな角度や場所からチャレンジしてみたが、そのようには撮影できなかった。おもしろい写真が撮れると思っていたのに当てが外れてしまい、ちょっと残念な思いはあったが、このことから逆に得るものもあった。

 

息子のように車イスに乗って呼吸器を使っていると、周りの人の目からは大きなバリアー、それこそ壁があるように見えるかもしれない。しかし実際に近くで一緒に過ごしたり、同じ教室で学んだりして、知ってもらうことで、その壁は小さくなり、やがてはなくなる気がする。

 

だから、こちらもどんどん外に出ていく。そして周りの人も巻き込んで『ベタ踏み坂』を乗り越えていこうと家族で確認した。今年も冒険の一年になるだろう。

風を感じて

先日、私の所属する職場の営業関係の総決起集会があり野田聖子総務大臣が出席し、講話があった。冒頭、自身の息子さんのことを語られ、気管切開をして、人工呼吸器や胃ろうにも触れ医療的ケア児が家の近くの学校に通えないのはおかしい。これを何とかしたい。党の枠組みでなく政治家としての思いを語られた。今回は社員の激励と言う名目であったが、冒頭この話があり正直驚いた。

 

この様子をLINEで妻に送ると「バクバクの会のはじめどんです!うちの子も医療的ケア児です!と、大声で叫べ!」と無茶ぶりをされましたが、さすがに大臣ともなると屈強そうなSPがべったり2人もついていて、怖くて声をかけるなんてとんでもないことだし、すぐに帰られたので、果たせずだった。

 

しかし、本題はこの後である。懇親会の歓談の中で、何人もの人が「たしか、お子さんは地域の学校行ってたよね」とか「もう何年生になったかね」とかいろいろ聞かれ、そのたびに「ええ、地域の普通学級に毎日通学しています、3年生になりました」と話した。 

 

毎年の年賀状・暑中葉書で、まわりの人に、報告してきた草の根的な細々とした活動の成果もちょっと感じたりもしたが、今回の野田大臣が医療的ケア児についてお話されたことで、世間の目も少しづつこちらに向き始めているのかなと感じた。行くまでは、3連休の頭にかったるいな、という気持ちで出席した決起集会であったが収穫があって良かった。

 

遅々とした歩みではあるかもしれないが、確実に風は吹き始めている。

もっと家庭からインクリュージョンを

先日、とある重度障害児・者福祉医療施設から「家族介助者教室」の開催のお知らせが届いた。

 

数週間前にここのフェスに参加して、いろんな取り組みをされていることを実感し、バクバクの会としても連携していけたらという感触を持った施設であったので、ちょっと行ってみるかと、日時を確認すると平日開催となっている。土日休みの私は「行かれへんやないかーい」と、軽いノリで突っ込んではみたが、心にはモヤモヤしたものが残った。

 

「家族教室」をうたいながら、主催者は無意識なのだろうが、大多数の平日昼間に仕事をしている父親のことを、結果として「排除」しているように感じられる。これはこの催しに限ったことではなく、「重症児保護者交流会」や「相談会」などによくみられる傾向である。

 

実はこの無意識のうちの排除こそが根が深い。うがった見方をすれば、「重症児・者のケアは母親とは限らないが、平日家にいるものがするもの」という意識があるのかなと感じてしまう。

 

往々にして感じていることだが、息子と一緒に何かしていると、「協力的なお父さんでいいですね、すごいですね」と言われることがある。実際のところ協力的な父親が少ないのかもしれないけれど、私は子育てや家のことに関して、妻協力しているのであって、妻協力しているのではない。

 

社会の側にも家庭の中にも子育てや介護はおもに母親の仕事、と思い込んでいないだろうか?インクルーシブな社会を目指すにはまず家庭内のインクリュージョンも必要じゃないかなと感じる。

ロングドライブⅡ

昼食の後は天気も良かったので、近くの日本庭園「三景園」へ行くことにした。

 

広島空港開港を記念して1993年に造られた面積約6ヘクタールの築山池泉回遊式庭園。比較的新しくできた施設なのでバリアフリー化されてるかなーと思い、行ってみる。

 

メインの通路はよかったのだが、少しわきにそれると砂利道だったり砂地だったりでバギーの車輪をとられてしまいなかなか大変だった。息子と出かける中で、今後もこんなことが数多く出てくるだろうなと予想された。

 

初夏の花々や新緑に癒され、大きな池には鯉がたくさんいて、息子もじっと眺めていた。コーヒーを飲んだりしてのんびり過ごして、気づくと結構な時間が経過していた。

 

呼吸器の残りバッテリーが心もとなくなってきて大慌てで勝手に空港ロビーで充電する。在宅生活初心者の我が家は専用バギーもなく、電源もなくかなりの無茶をしていた。それもこれも在宅で息子が元気になっていることに何とか応えてやりたいという想いと、妻の実家である奈良へ車で行けるのかどうかという不安があったように思う。

 

外出を重ねることで、問題点もわかり、気を付けることもわかるようになった。

ロングドライブⅠ

我が家のインバーター  外出時の強力な助っ人
我が家のインバーター  外出時の強力な助っ人
空港にて
空港にて

在宅生活1か月過ぎたあたりから車で病院以外のところにも行くようになった。

 

息子はこれまで電車や船には乗ったことがあり、今回はまだ乗ったことのない飛行機を見に行くことにした。

 

家から空港まで高速道路を使って約1時間。その往復の2時間とランチや見学時間を含めても、呼吸器の内部バッテリー(3時間半)、外部バッテリー(3時間半)合計7時間もあれば、まったくの余裕だろうと計算して家を出発した。

 

当時我が家の車にはインバーターと言う車の電源を家庭用の電源に変換するモノもなかったくせに「充電が必要なら、空港のどこかでコンセントを借りればいい」くらいの軽い気持ちだった。

 

因みに高速道路の渋滞など全く考慮していない無謀なドライブだった。今思うと冷や汗ものだが、当時は外に出たい思いでいっぱいだったのかなとも思う。が、今でも時々このときのことを思い出しては、くれぐれも無謀なことはしないようにかなりの電源的ゆとりを持つように、と猛省している。

 

道中は呼吸器をつけた息子と初めての高速道路で少し緊張したが、快適なスピードでトラブルもなく空港まで。到着までは眠っていた息子だが、デッキへ行くと飛行機の甲高いエンジン音に目を覚まして、青空へ飛び立っていく飛行機や舞い降りてくる飛行機を不思議そうに眺めていた。

 

つづく

マーゲンチューブ哀歌Ⅱ

わが家ではこの儀式は日曜の午後3時となぜか決まっていた。その時が近づくと、家族全員、憂鬱な気分になった。

 

鼻チューを抜くのはすぐ抜けるのだが、入れるのはなかなか入らない。ひとりが息子の頭を押さえつけて、動かないようにし、もうひとりが息子の上にまたがって、片方の鼻の穴から、鼻チューを入れる。

 

これだけのことだが、一方は逃れようと精いっぱい抗い、かたや、彼を動かないように必死で押さえる。失敗すると、反対の鼻の穴から鼻チューが出てきて、ドキッとする。

 

痛くて気持ち悪いのだろう、鼻から入れる胃カメラのような感覚だと思う。後にバクバクの先輩平本歩さんも著書『バクバクっ子の在宅記』(現代書館2017/8/15発行絶賛発売中)に「痛かった、涙が出た」と書かれていて実際に、自分で体験してみようとしたが、やらなくてよかった。息子よスマン。

 

とにかく毎回、双方、汗だくの攻防であった。最後に、マーゲンチューブの先が、胃に届いているかどうか、シリンジで実際に空気を入れて聴診器で確かめる。きちんと胃に到達していれば、空気を入れたとき、バフっと音が聞こえる。ちゃんと入っている音を聞くまで悪戦苦闘していたのが、今となってはいい思い出だ。

 

今、息子は胃ろうというシステムを採用しているので、このいさかいの元の鼻チューとは3歳でおさらばした。

 

またその話は、別の機会ということで。

マーゲンチューブ哀歌Ⅰ

在宅生活に移行し、医療的ケアも自分たちで行うようになった。ケアの横綱が痰の吸引とするならば、大関は経管栄養になるのではないだろうか?

 

息子の場合は、在宅当初、鼻からマーゲンチューブという細い管を胃まで入れてそこから栄養や薬・水分を摂取していた。

 

普段は鼻の穴から、マーゲンチューブ(うちの家では鼻チューブを略して、鼻チューと呼んでいた)だけの状態となる。抜け落ち防止のため鼻や頬にテープで固定する。

 

病院などでは固定テープを看護師さんがアニメキャラクターや動物のイラストなど描いて、可愛くアレンジしてくれていた。が、私とすれば、パッと顔を見たとき、このマーゲンチューブが目立つあまり、ともすれば人工呼吸器よりも、重病感を醸し出すような気がして、どうも好きになれなかった。

 

また息子からすれば常時鼻の穴からチューブがぶら下がっているので、気になって触ってしまう。朝ご飯支度の後、我々親が二度寝をしたすきに、息子が自分でこの鼻チューを引き抜いてしまったことがあり、ベッド中が栄養剤まみれになっていて、起きたとき気づいて途方に暮れたこともあった。

 

そんな鼻チューの交換が1週間に一回あるのだが、(あと、薬などが詰まるとこれまた入れ替えが必要となる)これが、親子お互いにとって苦行と言うか地獄と言うか、親子間の戦争、そんな有様だった。

お花見散歩

退院した翌日には、これまでの入院生活でなかなかできなかった、息子と外出することにした。これにはベッドから息子と呼吸器をベビーカーに載せる訓練の意味合いもあった。

 

息子が乗るベビーカーに、全部の装備は積み切らなかったため、念のため持ち歩く酸素ボンベは、別に荷物カートに載せて、ベビーカーを押していない私が、ころころと転がして歩く。

 

外出には、やはり当面2人以上の人の手が必要だ。

 

近所の川べりの桜が満開だったこともあり、春風の中を出発した。息子もベビーカーの手すりに足をかけてご機嫌だった。

 

しかし、すれ違う人、こども達の好奇な視線や憐れみの視線そんなものに直面する。こちらに何の免疫もないため正直辛かった。

だからといって家に閉じこもっているのも変だと感じていた。後々いろいろな経験を通してうまく説明できるようなったが、これはかなりのストレスを感じた。

 

ハード面、ソフト面、両方のトレーニングということもあり、妻と話し合って、これからはなにもないかぎりは、できるだけ、週末土日のどちらかはおでかけをしようということになった。

退院の日

在宅生活に向けて、さらに数回のカンファレンスがあり、ついに退院の日が決まった。退院は決まったものの、在宅生活は、ほぼ手探りの状態だった。

 

ここで夫婦間での役割分担を明確にした。

制度面や行政の手続きなどは私がやり、訪問看護さんヘルパーさんなどの関係は妻が担当することになった。

 

仕事柄、申請など書類仕事はやりなれてるから、まあ、私のほうが適任だろう、それほど面倒はなかろうと思っていたがこれがなかなか大変で…この話はまた後ほど。

 

春だ。4月に入り桜も咲き始めていた。

そして待ちに待った退院の日を迎える。

 

さんざんお世話になった病棟の先生や師長さん看護師さんたちと記念撮影をして、自宅に帰ってきた。マンションの駐車場では、これからお世話になる訪問看護ステーションの所長さんがすでに待ち構えてくださっていた。これからは両親だけでなくいろいろな人の知恵やパワーを集結して、ここで生活していくんだなーと思った。

 

久々の自宅に息子はどう感じていただろうか?

ドキドキ外泊

アラームの音は注意喚起のためもあり不安になるような音であるが、初めて自宅で聞くアラーム音はことさらドキッとさせられた。原因は夜中に吸引したあと、カニューレとフレキシブルチューブの接続が甘かったことにより、接続部分が外れかけていたことだった。気をつけているつもりでも、このようなことが起こってしまうのだなと改めて反省した。

 

そんなヒヤリハット体験をしたが、あっという間に時間は過ぎて病院へ戻るときが来た。車へ乗せる時や、機器のセットを病院を出るときよりも慎重に慎重に行った。何事もなく病院に戻ることができたときには、正直ホッとした。息子の状態は、安定していたものの、両親は精神的にも肉体的にもヘトヘトだった。

 

 しかし自宅に帰れたことは大きな自信となった。

 

こうして、ドキドキ外泊を無事終えることができた。

我々は帰ってきた

帰ってきた。

一時外泊とは言え、夢にまで見た自宅に帰ってきた。息子にとっても久々の自宅。

 

家族3人、自宅に無事たどりついて、移動時の不安からは解放されたが、まだ何が起こるかわからない状況には変わりない。

というか、それどころか仮に何か起こっても、主治医も看護師さんもいない。自宅に帰って家族で一緒に生活する。その想いはあったし、そのつもりで訓練もしてきた。しかし、いざ現実に在宅生活が目の前に迫り、そのプレッシャーは想像を絶するものがあった。

 

ともあれ、自宅に帰り、息子の状態も落ち着いて、一家だんらんの時をすごした。うれしかった。これで何とかやっていける。夜は心身の疲れですぐ眠ってしまった。

 

しかし、翌朝呼吸器からアラームが鳴り響く。

ついに外泊へ!

院内外泊を無事に終えると、遂に主治医から外泊OKの許可をいただいた。

 

呼吸器の乗せられるベビーカーがなかったので、急遽イオンなどで探す。もちろん両親二人が病室を離れるわけにいかないので、かわるがわる見に行き、検討し、購入した。また息子が、昼間リビングで過ごすためのスペースとして、ユニット畳に落下防止用のガードを自作する。

 

いよいよ自宅への外泊。呼吸器メーカーの方が車で付いて来てくださり、息子を乗せて自宅へ向かっている途中で事件が起こった。

 

突然呼吸器からアラーム音が鳴り響く。

 

アラームの音に連れて、体内の酸素濃度がどんどん下がってきたようで、息子の隣に座っていた後部座席の妻が慌てている。車を安全なところに停めて、様子を見る。どうやら人工鼻(という加湿器の代わりとなる部品・通常、回路の途中にはめこむ)がうまく機能していないことを呼吸器メーカーの方が指摘してくれて発覚し、人工鼻を外すことによって、とりあえずの事なきを得た。(この場合、自宅に到着するとまた加湿器に繋ぐことができるため、15分ほどの離脱で済んだが、この状態で長時間過ごすと、気道内が乾燥し、痰が粘っこくなり、閉塞の危険性もある)

 

しかし何が起こるかわからないということは十分にわかった。

 慎重な運転で、自宅にたどり着いたときにはホッとした。

院内外泊の効果

 『院内外泊』聞きなれない言葉だが、病院内にいながら外泊と同じ状態で過ごすことである。

 

退院準備の一環で、まずは病室内で、本当に緊急的な必要な時以外は医療関係者は一切来ない、いわば自宅と同じ環境にして、きちんと家族だけで生活できるかという訓練である。

 

これまで教えて頂いた、医療的ケア、痰の吸引、経鼻栄養の注入、万が一カニューレやマーゲンチューブ(鼻から胃へ通しているストロー状のもの)が抜けてしまったときの対処法等頭の中を整理した。

 

不安な気持ちはもちろんあるが、それを小脇に抱えて「自分たちはやれる」と自己暗示をかける。一つ一つハードルをクリアしなければ、息子と一緒に家で生活できないと思い、必死だった。

 

そんなこんなで迎えた院内外泊であったが、大きなトラブルなく乗り切ることができた。ひさしぶりの家族水入らずの1日を楽しむという余裕はまったくなくて、夫婦ともども緊張と達成感でへとへとになったことをよく覚えている。

今となっては、当時は随分力んでいたなぁと思うが、不安をつぶしていくには院内外泊の効果は絶大だった。

習うより慣れろ

身の回りのケアの仕方も覚えつつ、息子が家に帰るために避けては通れない医療的ケア。その筆頭ともいえるのが、たんの吸引。

 

病院で看護師さんが実施する場合は、滅菌手袋を取り出すところから始まり、個装の水の封を切ったり、カテーテルの開封など、その都度その都度やることが多い。自分がやるとなると、こんなにたくさんのことをやっていると、息子がゴロゴロ(我が家では痰のことをゴロゴロさんという愛称で呼んでいる)と痰が上がってきていても、すぐに吸引して、すっきりさせてやれないんじゃないかと、不安になった。

 

今までの人生で、カニューレから蛇管を外して痰の吸引なんて、見たことも聞いたこともない未知なるもの。(息子が呼吸器をつけてから見聞きすることのほとんどがそうなのだが)両親が吸引に慣れるためには、不安であろうが、練習をしなければならない。ゴロゴロ言い出すと、看護師さんを呼んで、目の前で見てもらいながら、吸引をするのである。私が付き添いの夜など、できるだけゴロゴロさんが来ませんようにと祈ったりしていたが、しっかりと登場して、自主トレに貢献してくれた。

 

厳しい指導のかいあって!?今となっては、ごくごく自然に出来ているような気がする。

 

まさに「習うより、慣れろ」だった。

退院準備…見るとやるとは大違い

新聞記事に勇気をもらい、退院後のビジョンも浮かぶようになった。自宅に帰ってから日常生活を送るための話し合いが、何度か行われた。(主治医・病棟看護師・地域連携室・保健師・呼吸器メーカーの担当者・訪問看護ステーション)

さらにこれから在宅生活のサポートをしてくださる訪問看護師さんたちが息子の様子や入浴の仕方などを学びに数回病院に足を運んでくれた。

 

自宅はマンションで、部屋の中に階段があるような高級マンションではないので、車イスでの移動の心配は少なかった。その点は良かったのだが、今までは、息子のケアは病院の看護師さんが行っていた。これも主に両親でしていく必要があった。

 

まずは、清拭の仕方などのレクチャーを受けた。つぎに呼吸器のホースを気管へ接続するために、のど元に「カニューレ」という小さなパーツがあるのだが、そのカニューレが抜けないように固定するひもの交換、カニューレまわりの消毒・ガーゼ交換、さらに、不慮の抜去に対応できるように再挿入の仕方など、いくらでも覚えること、慣れなければならないことが山ほどあった。

 

そして事件は起こった。

 

担当看護師指導のもと、カニューレの固定ひもを交換する際、左右から引っ張り合う私と妻の力加減が分からず、すぽんとカニューレが抜けてしまった。その直後、頭の中は本当は真っ白だったが、口では「落ち着いて、落ち着いて」と言っていた。そう言っている間に妻が、看護師のアドバイスでカニューレを入れていた。「抜去してしまった際にはすばやく清潔に再挿入する」たったそれだけのことに、焦ってしまった。見るとやるとは大違いを実感した。

帰った先のビジョン…未来と希望と

3月に入ったある日、新聞を何気なく読んでいると「人工呼吸器」「地域の小学校」と言うワードが飛び込んできた。え!呼吸器付けて地域の学校って!?どういうことだ。しかもこの広島で?
実は、それまでは、ただしゃにむに家に帰りたいとは思っていたのだが、帰ったその先は、となると明確なビジョンはなかった。

 

新聞記事を食い入るように読んだ。人工呼吸器をつけていても、地域で生活し、同級生とともに学校に通い、成長できるんだよ、とそういう内容だった。そこには、未来があった。ぱーっと広がる我が家の希望があった。それがわが家とバクバクの会との真の出会いだった。

 

その少し前に、病院の医師・担当看護師から会のことは聞いていた。妻は、なんとなく気が乗らなさそうだった。あとから聞くと、付き合いがめんどくさそう、傷のなめあいをしてそう、そんなネガティヴな印象だったそうだ。しかし、この新聞記事が出た日、病院に新聞を持って行き思わず力説していた。「これは入会せにゃあ、いけんじゃろう」と。

春競馬までには退院を!

疲れ果てて眠るオヤジ
疲れ果てて眠るオヤジ

食事のことはもちろんだが、入院が長期になってくると病室ですることもなくいろいろなことに飽きてくる。本や雑誌、テレビも冬なので野球もなく、相撲も2か月に一回…。妻は編み物ばかりしていた。

 

当時はスマホはまだまだ普及しておらず、PCを持ち込んでもいなかったので、情報の入手には苦労していた。ここは、病室は、本当に世間と隔離されているな、と感じていた。このままだと本当に息子は「温室育ち」になってしまう。

 

日曜日に家族で病室に居られるが、これといってすることもない。さてどうしたものか?テレビを何気なく見ていると、

某テレビ局で毎週やっているスポーツ番組があった。貴族の嗜み、競馬である。日曜日の朝に自宅の妻に買い目を連絡し、PCでメインレースに500円づつ馬券を購入する。午後3時過ぎにドキドキしながら中継を見て、一喜一憂して帰途につく。

 

春競馬が本格化するまでには、家族みんなで家に帰りたい。

長引く入院生活…疲れる親

息子に呼吸器からエネルギーが送られ、元気になってきたが、親の方はだんだん疲れがたまっていき、普段はほとんどしない夫婦間でのささいな言い争いがたびたび起こった。

 

もう本当に息子を家に連れて帰りたいと切実に思った。

 

入院中の平日は仕事が終わると125ccバイクで約16km離れた病院に行って夕食をとり、そこから約10km先の自宅に帰るという日々が続いていた。真冬の夜にバイク移動は寒さで、心身ともに結構辛かった。

 

 食事も息子を置いて外食などできないので、何か買って持って行くことになる。コンビニ弁当は1週間で飽きてきて、栄養のバランスも悪く、経済的にもキツい。(T_T) 病室にお好み焼き、カレー、ハンバーガー、丼もの、寿司など色々なものをデリバリーしてもらった。これもまた栄養のバランスが悪く、経済的にもたいへんキツい。妻は野菜不足をことのほか心配していて、何とか野菜を摂ろうと苦労していた。

新生ザク!選択した先にあった息子の笑顔

手術を終えて、呼吸器とパイプをつけた息子が病室に戻ってきた。呼吸器から送り出される空気の音が思っていたよりも大きかった。

 

生きている証の音だと思った。

 

麻酔から醒めた息子は、顔色もよく、私と妻の顔を見つけて ニコっと笑った。嬉しかった。救われた気がした。

 

ずっと後になって、ALS患者の三保さん(広島在住の現役歯科医・アクティブ親父)が手記の中で、『人工呼吸器を装着して約10ヶ月がたつが、私の人工呼吸器ライフはそれまでの心配が嘘のように快適なもので、自分でも感じる程にエネルギーに満ち溢れている。同期の内科医の何人かが「人工呼吸器を装着すると地獄のような暮らしだぞ。」 と私に忠告したものだが、そんなことはない。 人工呼吸器を装着してからというもの、病状の進行はピタリと止まった。 いや、むしろ好転したと感じる。 誤嚥が怖くて諦めていた食事に再挑戦したり、諦めていたお洒落を楽しんだり、すべての面で「復活」した』と書いておられるのを読み、 あの時の選択は間違っていなかったと実感した。(JALSのHPより引用 ぜひ全文お読みいただきたい http://alsjapan.org/2016/11/15/post-673/

 

息子はグングン元気になっていった。パイプからエネルギーを得ている点は、『ガンダム』に出てくるザクみたいでいいじゃないか、けっこうかっこいいぞと個人的に思っていた。

我 事において後悔せず

人工呼吸器 箱からホースが出ているように見える
人工呼吸器 箱からホースが出ているように見える

こんなパイプや管をつけて、まともな生活が送れるのだろうか? しんどい思いをさせても、病院の中だけで過ごすしかないのか? それでも命ある限り、生きてほしい。

 

入院時、日曜日から金曜日は妻が病院で付き添い、土曜日の夜は、妻と交代し私が息子と一緒に、病院のベッドで眠った。彼の頭をなでながら、何度も尋ねた。どうしたらいいのか?と。

妻とも話し合いを重ね、医療関係者にも質問した。在宅で暮らせるのかどうか?最終的にはここが一番のポイントだった。 主治医から、「在宅で生活できる。ただし条件をクリアしてもらいますが」と力強く告げられ、人工呼吸器の装着を決意した。

 

『我 事において後悔せず』

新たな目標に向かって、親子三人決意をした。そのとき、私は宮本武蔵のこの言葉を思い浮かべていた。 「人工呼吸器をつけた事に、後悔しない」 腹をくくって、手術に臨んだ。

親になって1年、重すぎる選択がやってきた

入退院の繰り返しで、ICUに入っては挿管される日々が1か月続いた。

 

息子は口から管を入れられているので、喉が荒れてしまい、声もガラガラだった。この間マスク式の呼吸器も試してみたが、うまく行かなかった。顔もマスクを固定させるテープでかぶれてしまった。

 

状態はいっこうにに良くならず、2月になり主治医より気管切開を勧められる。喉に管を通して、常時機械で呼吸管理をすることになると説明され、声を出すことはできないとも言われた。そして、それをしなければ、遅かれ早かれ呼吸不全での看取りを覚悟してください。

 

親になって一年ちょっとでの重すぎる選択。

 

何がこの子にとっての一番良い選択なんだろう? 人工呼吸器って何? 見たこともない。そもそも延命のために無理やり使う道具じゃないのか? そんな思いがグルグル頭の中を駆け巡る。

 

インターネットで調べてみる。箱?あるいは百科事典?にホースがついたシロモノにしか見えなかった。

呼吸器ってなんだ? リアルティのなさすぎるドラマの始まり

うちの息子は人工呼吸器をつけて生活している。

 

彼が生まれて、半年ほどたったころ、フォローアップの医師から「リー脳症の疑いがある。この子はながく生きられないかもしれない」と聞かされ、妻ともども目の前が真っ暗になった。

 

今、目の前で寝返りしているこの子が、動けなくなって呼吸もとまる。いまどき、ドラマでもリアリティがなさすぎるだろ?

 

とは言え、これが現実だった。それからは、家族3人の時間をしっかり過ごそうという思いだけだった。1歳の誕生日間際になると、急に呼吸停止の発作が起き始める。チアノーゼで真っ青な息子の顔はとても正視できなかった。